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Interview with

カーチュン・ウォン 日本フィル首席指揮者

ヴァイオリン ポール・ホワン
「マーラーの交響曲は、ベートーヴェンのように普遍的」
と語るカーチュン・ウォン
(5月24日、大宮・ソニックシティでの交響曲第5番
演奏の開演前の楽屋で)

「マーラーは民族や風土超え、普遍的」
愛や孤独、自然、人生…5番には解放の旋律

 日本フィルハーモニー交響楽団が、首席指揮者、カーチュン・ウォンとマーラーの旅を続けている。2021年12月の交響曲第5番、22年5月の第4番に続き、23年10月の首席指揮者就任披露演奏会では第3番を演奏。その後、第9番(24年5月)、第2番《復活》(25年3月)とツィクルスが進行し、この5月には第5番を再演した。「暗」と「明」の要素があるなら、光をこそ高らかに歌う。完売公演の続くウォンと日本フィルのマーラー演奏は、聴く者の心に希望を灯す。  

藤盛一朗◎本誌編集


──多様な作品を指揮していますが、中心にマーラーがあると見受けられます。

 激しい音楽ですから、毎日いつも向き合えるわけではありません。ですが、いつも立ち帰ります。自分には、「もう一つの性分」のようなものです。
 多様性がその特徴です。そして、マーラーの生きた時が映し出されています。歌曲であれ、交響曲であれ、あちこちに葬送の調べが現れます。そうかと思えば鳥や動物の鳴き声が聞こえてくる。交響曲第1番の冒頭では、小鳥たちがさえずります。第2番の第3楽章では、魚が登場します。

ヴァイオリン ポール・ホワン
交響曲第5番を演奏後、日本フィル楽員を称える
カーチュン・ウォン
(5月25日、サントリーホール©山口敦

軍楽隊で演奏の日々
葬送行進曲は日常

──歌曲集《子どもの不思議な角笛》の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」の引用ですね。

 その通りです。魚たちは、説教を理解しない。第1番の第3楽章は、葬送行進曲と動物たちの融合です。まるで(動物に仮装して演奏する日本の)「ズーラシアン・フィルハーモニー」のよう(笑い)。ライオンの仮面をかぶって演奏する写真を見ましたよ。
 棺を担いだ葬列が通りを進む。生き物もいる。こうした感覚は、私にはとても自然です。シンガポールの小学校のブリティッシュ・バンドでコルネットを吹いたのが音楽との出会い。そして軍楽隊でトランペットを演奏しました。シンガポールには2年間の徴兵制度があるのです。

ヴァイオリン ポール・ホワン
拍手を受けるウォンと日本フィル©山口敦

 軍楽隊では毎日、演奏しました。葬儀でファンファーレを吹き、王族のような要人が来訪すれば歓迎式典です。こんな日々がふつうに続きました。葬儀ではトランペットの吹奏後、棺が下ろされます。演奏が終わると、鳥のさえずりが聞こえ、家族がすすり泣くのを目にするのです。

 連想するのは、交響曲第3番第3楽章のポストホルンのソロです。雰囲気はもちろん異なります。3番の世界はアルペン・ホルン、自然…。ですが、その心は、共通します。孤独感。シンプルな楽想と音。

自分は何者かという問い

──マーラーの音楽からは、複雑なアイデンティティの問題がうかがえます。

 独特なアイデンティティの持ち主です。ボヘミア(現在のチェコ)出身であり、ユダヤ人であり、ドイツ語話者の家庭の出身です。マーラーは、自分が何者なのか、いつもアイデンティティを探していたのです。
 私にはとてもよく分かります。シンガポールは歴史の浅い国家です。その文化の由来は中国なのか、はたまたインドなのか、マレー半島なのか…。まして私は音楽家です。欧州で勉強をする必要を感じました。アイデンティティの危機は、いつも身近な問題でした。

第3楽章の副題を変更
「愛が語りかけるもの」に

──マーラーには終生、死の怖れがつきまとっていたように感じます。同時に、相反する天国的な世界への憧れが心に存在し続けたのではないでしょうか?

 まったくその通りだと思います。交響曲第8番や《大地の歌》の創作を経た後の第9番の混沌をみてください。ようやく落ち着くのは、終楽章です。
 (《悲劇的》という副題もある)第6番ではハンマーが振り下ろされます。作曲当初の構想では5回でしたが、3回に減らされ、最終的には2回で十分と決めたのです。

ヴァイオリン ポール・ホワン
(左から)ホルン首席の信末碩才、
トランペット首席のオッタビアーノ・クリストーフォリ、
ソロ・コンサートマスターの田野倉雅秋とともに
聴衆の歓呼と拍手を受けるカーチュン・ウォン©山口敦

 マーラーは宗教も特別です。交響曲第3番の各楽章には、副題が付いていました。第1楽章は「牧神の目覚め」、第2楽章は「花々が語る」、第3楽章は「動物が語る」。ソプラノの入る第4楽章は、人間が主人公で、ミステリオーソの指示付きです。第5楽章は天使の歌。問題は終楽章で、「神が語ること」とする当初のアイデアが、「愛が語りかけるもの」に変わりました。
 こうしてみてくると、マーラーの宗教観はバッハとは違う。イエス・キリストを信じるというより、「愛が語りかけるもの」ですから仏教でも神道を信じる人も理解できます。この点でも私はシンガポールとの共通性をみるのです。移民国家であり、差異を超えて互いに理解し合おうとします。
 シベリウスを考えてみましょう。北海道の人にはフィンランドと気温や大地の広がりが似ているので、より身近な音楽かもしれません。フィンランドの指揮者が振るシベリウスはやはり特別です。
 ですが、マーラーは違います。もっとずっと普遍的な音楽です。(出自を問わず)だれもが指揮をし、納得できる音楽なのです。シベリウスやグリーグなら、演奏について風土とのかかわりや固有の伝統を問われるかもしれない。でも、マーラーは違います。マーラーのように普遍的な作曲家の名を挙げるなら、それはベートーヴェンであると思います。

「肯定」に向けた美しい構成

──今回指揮をする交響曲第5番では、第2楽章で現れ、終楽章の終わり近くで響くコラール旋律の解釈は分かれます。宗教的な救済なのか、解放なのか、あるいはパロディなのかお考えはいかがでしょうか?

 解放という言葉が本質を突いていると思います。……(中略)……

──9月には日本フィル定期で交響曲第6番を指揮します。《悲劇的》と呼ばれることもあるように、4番や5番とは別の世界に感じられます。

 実はずっと、この曲は避けてきました。7番も、8番も、9番も指揮したが、6番だけは別。「まだ早い」とか言って断ってきたのです。ですが、日本フィルとはマーラー・ツィクルスを進めています。今回は避けられません。昨年には兵庫芸術文化センター管弦楽団を指揮して6番を演奏しました。今はリラックスして指揮できると考えています。

聴衆のために演奏する音楽家族

──日本フィルとは数々の名演が生まれてきました。

 この楽団は私には本当に特別な存在です。まず楽員が本当に、ほんとうに親切なこと。「部活」(日本語で発音)のように、皆で演奏する気持ちが共有されています。音楽の家族です。
 ホルンの信末碩才(のぶすえ・せきとし)さん、トランペットのオッタビアーノ・クリストーフォリさん、オーボエの杉原由希子さんのようなワールド・クラスの奏者がいます。同時に、このオーケストラは一つの身体です。伊福部昭の作品など、共演を重ねるうちにリハーサル時間は短くて済むようになってきました。
 この春には九州公演の指揮をしました。1975年から毎年続いて、今年が50回目だったということです。小さな会館や、昭和スタイルのあまり響かない会場もありました。ですが、このオーケストラはいつも、サントリーホールと同じ演奏をするのです。私には非常に印象的なことでした。大牟田(福岡県)でもサントリーホールでも、ウィーンのムジークフェラインでも、日本フィルにとって大事なのはお客さんなのです。ホールに集まる人々の心を大切にして演奏するオーケストラです。

──マンチェスターのハレ管弦楽団とはどのような公演を予定していますか?

 8月にはロンドン・プロムスでマーラーの交響曲第2番を指揮します。日本の皆さんにも聴きにきてもらえるとうれしいです。

ヴァイオリン ポール・ホワン
英国のハレ管弦楽団とともに
マーラーの交響曲第2番を演奏するカーチュン・ウォン
(1月25日©Alex Burns)


※MOSTLY CLASSIC  interview with は、MOSTLY 本誌最新号から、えりすぐりのインタビュー記事を抜粋版でお届けします。ウォンが交響曲第5番について語った全文は、最新号(紙版・電子版)でお読みください。


Kahchun WONG

シンガポール出身。2023年9月から日本フィル首席指揮者。ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者、24年9月からイギリスのハレ管弦楽団の首席指揮者及びアーティスティック・アドバイザーを兼ねる。
クルト・マズアやユーリー・シモノフに師事し、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学でオーケストラ・オペラ指揮の音楽修士号を取得。2016年グスタフ・マーラー国際指揮者コンクール(バンベルク)で優勝。クリーヴランド管、ニューヨーク・フィル、チェコ・フィル、読響などを指揮してきた。