特集アーティスト

Interview with

務川慧悟

務川慧悟
2023年、パリのセーヌ川に架かる橋、
ポンヌフにて(務川提供)

「ラヴェルはあたたかく、
フレンドリーな人」

ピアノ作品と向き合って

ピアニスト・務川慧悟にとって、ラヴェルの音楽は限りない探究の対象だ。今年7月、務川は東京と大阪でラヴェルのピアノ作品全曲演奏会を敢行。パリ音楽院留学以来、その音楽世界に全身で向き合う彼は、作品の魅力をどう捉え、どのように表現しようとしているのか。

植村遼平◎本誌記者


──7月の全曲演奏会は、ラヴェルとじっくり向き合う大きな機会だったと思います。どのようなことを感じていますか?

 前から思っていたことなんですが、ラヴェルは温かい人だなと。彼の音楽は設計図のように緻密ですが、そこには本当に伝えたい人間的なメッセージが潜んでいる。例えば《水の戯れ》で、最後に唯一のexpressif(表情豊かに)が出てくるのも、それをしっかりと伝えたかったからだと思います。
 今回の公演に向けて、彼の書簡全集を原語で読むという贅沢な経験をしました。読んでみると、クールなイメージのラヴェルが実はさみしがり屋で、日常の何気ない出来事を逐一報告していたり、相手から返事がないと「ぜひとも返事を」と送っていたり。また、戦争の前には極端に手紙の量が増えたりもします。音楽から感じるイメージとは少し違ってフレンドリーな人だと感じました。

──音楽と文章の両方から人間的な温かさを感じられたと

 手紙の締めの言葉も独特で、日本語の「敬具」の部分で、必ずラヴェルは「あたたかい握手を」というような言葉を使うんですが、これはラヴェル以外では見たことがない表現なんです。自分なりのサイン代わりだったのかなと。

古い音楽への敬意
作風の境は《クープランの墓》

──ラヴェルはよく同時代のドビュッシーと比較されますが、務川さんは二人の関係をどう見ていますか?

 性格的には、ドビュッシーはラヴェルと真逆と言ってもいいぐらいです。手紙の話に戻りますが、ラヴェルはとても几帳面で、日本人の僕には読みやすい。対して、ドビュッシーは非常に生意気で、文学的な言葉遣いもしますし、色気のある人だったのだろうと。この性格の違いは曲にも表れていて、ドビュッシーのほうが簡単に言えば柔らかく和音を組み合わせている。ただし、印象派という時代の枠としては、お互いの書法には近いものがあります。

──ラヴェルは古典的な形式を好んだとも言われます。

 ラヴェルは古い音楽への知識が豊富な人で、厳密にいうと古いバロックへの敬意がありました。例えば「パヴァーヌ」は実際にはルネサンスからあった舞曲の形式ですし、彼が沢山書いた「メヌエット」もテンポ表記がものすごく遅い。メヌエットは古典派、モーツァルトの時代からだんだんテンポが速くなっていった舞曲で、ラヴェルはもっと古い、バロック初期の時代のメヌエットを目指していたのだと思います。

──ラヴェルのピアノ曲はほぼ全てが第一次大戦前後までに書かれています。作風全体の方向性はどう見ていらっしゃいますか?

 ラヴェルは、完成された最後のピアノ曲の《クープランの墓》を山場に作風が変わると思っています。戦争や母の死を経た、悲しいメッセージが込められた作品です。ピアノ独奏曲は全てこの前半生期に書かれているので、よりラヴェルの几帳面な性質が表れていますし、《クープランの墓》以降は、ラヴェルはより新しい、複雑な音楽を取り入れていきます。

務川慧悟
7月23、24日の2日間、東京・浜離宮朝日ホールで連日3時間超に渡り
ラヴェルのピアノ作品全曲を披露した ©NEXUS

海と山の双方に愛着
音楽も絵画のように捉える

──かつてラヴェルアカデミーで訪れたバスク地方にはどんな印象を持たれましたか?

 バスクは山も海もある場所で、ラヴェルはこの両方に愛着を持っていたことを現地で感じました。水への愛着は《水の戯れ》がそうですし、《夜のガスパール》の〈スカルボ〉は森の中の昆虫の鳴き声のように聴こえる部分があります。ヴァイオリン・ソナタの第1楽章は、森の要素と海の水平線の要素を併せ持つ、最もバスク的な作品です。

──務川さんはパリ音楽院で長く学ばれました。ラヴェル演奏に今も役立っている経験はありますか?

 日本では「フランス音楽は少し特殊に弾くべき」というバイアスがあったように思います。つまり、王道のドイツ音楽とはずらす、と捉えられがちで、僕もそう考えてしまっていました。でもフランスでラヴェルやドビュッシーを勉強する時は、僕らがモーツァルトをやる時となんら変わらない。楽譜通りに弾き、一つ一つのニュアンスを論理的に汲み取る。わざわざオシャレにすることなく、自然に音楽が出来上がります。
 そして、多くの音楽はメロディーが上位にあって、そこにバスと伴奏が付くという捉え方をされますが、印象派では絵画と同じく、前景、中景、後景というように「距離」で捉えるんです。距離が一番近いものが中音域にあってもいいし、背景が最高音になったりもする。ピアノだと右手の上の音を強く弾いてしまいがちですが、これをかなり直されました。重要な箇所は発音をしっかりして、そうでない箇所はぼかす。そうして音楽に層が出来ていきます。

※全文は本誌を手にとってお読みください


Mukawa Keigo

1993年愛知県生まれ。東京藝術大学を経てパリ国立高等音楽院に留学し、ピアノ科、室内楽科、フォルテピアノ科を修了。現在は日本とヨーロッパを拠点に国内外で演奏活動を行っている。2019年にロン=ティボー国際コンクールで第2位、2021年にエリザベート王妃国際音楽コンクールで第3位を受賞。2022年、NOVA Recordより「ラヴェル:ピアノ作品全集」をリリース。