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Interview with

山田和樹

山田和樹
©Yoshinori Tsuru

ミサ・ソレムニスに初挑戦

11月に横浜シンフォニエッタ、
東混を指揮

「おそろしい作品。
メッセージは永遠の愛」

山田和樹が11月、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》を初めて指揮する。畏れ多く、容易に取り組んではならないと感じてきたという大作の世界に今、何をみるのか。滞在中のオスロでオンライン・インタビューに答えた山田は「全体のメッセージは永遠の愛」と語り、話題はベートーヴェンの信仰や江戸時代の踏み絵へと広がった。

聞き手 藤盛一朗◎本誌編集


──山田さんの《ミサ・ソレムニス》体験から伺います。

 遠い作品でした。日本人指揮者として、数多く指揮をしてきた第九と比べれば、縁遠かったともいえます。師匠の小林研一郎先生は、第九をもっとも多く指揮した指揮者としてギネスブックの記録保持者です。合唱団などからは「ぜひ《ミサ・ソレムニス》を」と熱望する声もあがるのですが、小林先生は現在に至るまで取り上げていらっしゃらないのです。師の師は、山田一雄先生。師事したローゼンシュトックに「《ミサ・ソレムニス》を指揮したい」と言ったら、「それはやめておけ」と。それでも指揮をして、破門されたということです。のちに関係は修復されたということですが…。こういう話を聞いたこともあって、自分の中では「若い人が指揮してはだめな曲である。それほどの大作なのだ」というイメージが作られました。山田一雄先生自身、実際に指揮してみてローゼンシュトックの言っていた意味がようやく分かったと述懐していらっしゃいます。
 この曲は、おそろしい作品です。第九であれば、合唱の出番は実質15分くらい。です
が、《ミサ・ソレムニス》では、ほとんど出ずっぱりで歌い続けます。巨大です。壮大な作品。ぼくの手に負えるものではないとずっと思っていたのですが、今回、満を持して指揮をすることにしました。初挑戦になります。

ベルリン・フィルを指揮する山田和樹
ベルリン・フィルを指揮する山田和樹 ©Bettina Stoess.

神は本当にいるのかという問い

──この曲の偉大さや独自性はどんなところにあるとお考えでしょうか。

 ベートーヴェンの宗教性でしょうか。ベートーヴェンの音楽に向かい合っていると、ときどき、耳が聞こえない人だったという事実を忘れてしまったりするのですが、耳の問題や友達も少なかったこと、生涯独身であったことなど、ベートーヴェンの前には厳然とした運命が存在していました。「神さまは本当にいるのだろうか」や、「神などとても信じられない」という思いにとらわれたことがあったはずで、実際に「私は神を呪う」と書き記したという記録も残っているようです。
 第九には、「神の前に天使ケルビムが立つ」と合唱が歌う場面がありますね。「神の前vor Gott」という言葉を3回繰り返します。以前はとても荘厳な箇所だと思っていたのですが、神の返事の代わりに始まるのは、風刺とも取れるようなトルコマーチなんです。「遠くの神より近くの友だち」──これが本来の第九のメッセージなのではないかと思ったのです。
 ですが、《ミサ・ソレムニス》は80分の演奏全体が宗教音楽です。ベートーヴェンは、「対」の創作を好みました。《運命》と《田園》。交響曲第7番と8番。そして人類は皆兄弟と歌う第九と、人智を超えた存在を主題とする《ミサ・ソレムニス》。そもそも第九はアマチュア音楽家にも広く開かれた曲ですが、《ミサ・ソレムニス》はおいそれとは手が出せない。
 ニ長調という調も特別です。同じニ長調の交響曲第2番は、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いたときに作曲されました。モーツァルトの《レクイエム》はニ短調。ニ調というのは、生きることと死ぬことに結び付いた調です。
 ベートーヴェンは、《ミサ・ソレムニス》の作曲にあたってモーツァルトの《レクイエム》などを筆写しました。ニ長調の平行調は、ロ短調ですが、バッハの《ロ短調ミサ》との関連も感じられる。もっともベートーヴェンが《ロ短調ミサ》に触れたのは、《ミサ・ソレムニス》を書きあげた後だったようですが…。
 ベートーヴェンは、バッハやヘンデル、モーツァルトといった偉人に学ぶことからインスピレーションを得ていました。独創的なイメージの強いベートーヴェンに、先人に学ぶ姿勢がそこまであったというのは驚きです。グレゴリオ聖歌も学んだ。第九が冒険的であったのに対し、《ミサ・ソレムニス》は、既存の音楽や先人への尊敬の集大成であったともいえます。第九がシンフォニーの幅を広げ、革新的な作品であるなら、《ミサ・ソレムニス》は保守的といえる。
 神は存在しないのではないかと思うような人生を歩みながら、その終盤でこんな大作を書いたのです。勉強をして思うのは、本当にとんでもない作品だということ。フーガでの合唱の入り組み方など、スケールが違います。そしてあらためてバッハやヘンデルもすごいなと思うのです。

全編が感動と驚きの連続

──合唱では、例えば世界が積み重なっていくような「グローリア」のフーガがすぐ思い浮かびます。ご自身が感動する箇所は?

 全編です。「グローリア」なら冒頭、ヴィヴァーチェで音楽が駆け上がります。当時としては型破りであったと思います。始まりの「キリエ」も壮大。「グローリア」のフーガも壮大。音楽が終わろうとせずに続いていく。終わりなきフーガです。さまざまなことが交錯する人生のようです。
 「グローリア」の終結部では「アーメン」としつこいくらい繰り返す。ベートーヴェンの音楽では、繰り返しこそが強いメッセージです。人生そのものも、神を求めることも、巡礼も、ミサに通うことも繰り返し。それは終わりなき永遠性に通じます。果てしない永遠性こそが、この曲の一番の感動ポイントかもしれません。全編を通して音楽の永遠性、人類の永遠性、神の永遠性が歌われる。人生は有限ですが、その有限の中に無限を謳うのです。

自分の命を超えた愛

──「クレド」は、非常にドラマ性があり、ベートーヴェン自身の信仰告白であると感じられます。

 その通りです。江戸時代には踏み絵がありましたが、私は、すべてお見通しの神さまが見てくれているのだから、踏んでも赦されるのではないかと考えていました。ですが、クリスチャンの立場ではそうではなくて、やはり踏んではならないと。江戸時代でも、原始キリスト教の時代も、信仰の表明は、死と結びつきました。ではなぜ、その信仰を言い表されなければならないか。それは、自分の命を超えた愛があるからなんですね。
 《ミサ・ソレムニス》の作品も、愛という言葉こそ直接出てはきませんが、全体のメッセージは永遠の愛です。とりわけ「クレド」は、そのような愛を元にした信仰告白の世界が広がっています。

ヴァイオリン1本で変わる世界

──「ベネディクトゥス」のヴァイオリンのソロからも愛がにじみでるかのようです。

 ベートーヴェンはよくこんな凄いものを書いたと感動します。長大なソロ。ヴァイオリンがいくら頑張っても、歌手のようなテキストをもつことはできません。ただ、意味を込めることはできる。言葉を超えてヴァイオリン1本に歌わせる。言葉がないがゆえに意味は一層深まります。ヴァイオリンが美しい旋律を奏でる時は、その世界の表情が変わる時。それもヴァイオリン1本だけというのは、これはベートーヴェンの特別にして最大のアイデアであったと思います。

※ベルリン・フィルとのサン=サーンスの交響曲第3番の指揮を振り返り、ピアニッシモの意味について語る続きは、本誌を手にとってご覧ください。


Yamada Kazuki

2009年、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。2012年~18年スイス・ロマンド管の首席客演指揮者、16/17シーズンからモンテカルロ・フィル芸術監督兼音楽監督、2023年4月からバーミンガム市響首席指揮者兼アーティスティックアドバイザーを務め、24年5月には同団音楽監督に。今年6月にはベルリン・フィル定期を指揮した。サンタ・チェチーリア国立アカデミー管、トゥールーズ・キャピトル国立管、フランス国立管への定期的な客演のほか、近年は、ミラノ・スカラ座フィル、スウェーデン放送響、クリーブランド管、ニューヨーク・フィル、サンフランシスコ響、シカゴ響を指揮。26/27シーズンより、ベルリン・ドイツ響首席指揮者兼芸術監督に就任予定。

東京藝大指揮科で松尾葉子・小林研一郎の両氏に師事。東京混声合唱団音楽監督兼理事長、学生時代に創設した横浜シンフォニエッタの音楽監督として活動。2012年~22年に日本フィル正指揮者。

狛江エコルマホール開館30周年記念企画
ベートーヴェンをたたえて ミサ・ソレムニス

11月24日(月・祝)15:00 東京・狛江エコルマホール

指揮:山田和樹
管弦楽:横浜シンフォニエッタ
ソプラノ:田崎尚美 メゾ・ソプラノ:小泉詠子 テノール:小堀勇介 バス:加藤宏隆
合唱:東京混声合唱団

問い合わせ:狛江エコルマホール 03(3430)4106