「第31番の演奏で、ベートーヴェンの愛を実感した」と語る伊藤恵
©千葉広子
第31番の演奏で感じた「慈愛」
楽譜の読み方が変わった
4月のリサイタルは、あえて名前のついた曲ばかりを集めたプログラムにしました。ありとあらゆる方が弾きつくしてきた曲ばかり。演奏が重ねられるうちに作品そのものが巨大な成長を遂げ、変容している曲もあります。ですが、私はベートーヴェン自身が一音一音を記した創作の瞬間に戻りたいと思っています。ベートーヴェンはどんな世界観をもって何を表現したかったのか─。そこに思いを馳せたいと思います。
ピアノ・ソナタ第31番を昨年、人前では初めて演奏しました。写経をしているようでした。一音一音がありがたい。愛をくださる神さまの言葉のように感じました。不完全な私をも赦してくれる。だれでも受け入れてくれる慈愛です。
世界の苦しみ、悲しみの投影
それまでは、ベートーヴェンに「そんなのではだめだ」といつも怒られているような感覚がありました。「修業が足りない」とか「人生をまじめに考えていない」とか。「自分の音楽を分っていない」という声が聞こえるようで、いつも「ベートーヴェン先生、ごめんなさい」という感じでした。ところが第31番の演奏では練習中から「だめでも赦す」というような、特別豊かな愛情を実感したのです。
それ以来、ベートーヴェンのすべての楽譜は「愛」が基になってできていると感じます。楽譜の読み方、感じ方が変わりました。
32のピアノ・ソナタは、それぞれ一つ一つが人格を持っている。≪悲愴≫は、耳の不調を初めて人生の一大事と捉えた時に生まれた音楽です。苦悩。第1音から、叫びが聴こえてきます。そして、その苦悩は私たち一人一人の苦悩に通じます。コロナ、そしてウクライナという世界の痛み。戦争はなんの罪もない子供が孤児になってしまう。戦争は、大切な存在をいやがおうにも奪います。ベートーヴェンの音楽には、そうした世界の悲しみ、苦しみが投影されているように思うのです。
私たちを励ます音楽
そして、私たちはベートーヴェンに励まされます。彼は決して希望を捨てなかった。生きる希望をもらいます。
ベートーヴェンの音楽は、私たちにどんなに幸福をくれようとしていることか。どの曲にも希望と絶望があり、ベートーヴェンは立ち上がろうとしている。そして、深遠な時間があります。≪月光≫の第1楽章のような、静寂の音楽です。
≪悲愴≫の第1楽章は、苦悩と運命への抗い。第2楽章には、温かな慰めがある。第3楽章は、乙女がほほ笑むよう。すべてがドラマティックに変化します。苦しいばかりでなく、明るさとの対比。そして、最終的には喜びを私たちにくれる。そこがベートーヴェンの素晴らしさです。
私は仏教徒ですが、第31番の演奏で体験したのはベートーヴェンの音楽の中の神さまの愛でした。神秘体験だったと思います。(愛は)冒頭のタンタタンから始まっている。そして第2楽章では運命との闘いがあり、第3楽章では絶望の中の嘆きの歌があり、それはベートーヴェンというよりすべての人にとっての嘆きとなります。普遍的な。そして、フーガで救済されるのです。とても宗教的な音楽であると思います。
昨年の「春をはこぶコンサート」で演奏する伊藤恵
(Kajimoto 提供)
ベートーヴェンのノートには、神への呼びかけが記されています。神、とはだれなのか。運命なのかな、と思います。交響曲第5番第1楽章と同じ音型が、第31番の第1楽章にもゆっくりした形で出てきます。そして、右パッセージに左パッセージが和す。私は運命と和解したという印象を抱きます。≪熱情≫にも、運命のモチーフがタタタタッと現れます。これは闘い。ですが、第31番になると、和解し、感謝すらしている。
神は試練を与えるが、ベートーヴェンは森に入って木々から神の言葉が聞こえた、と記しています。「聖なるかな、聖なるかな」と書いている。森をさまよって作曲し、自然から霊感を得ています。自然を通して、超越的な神の存在を本当に感じていた人です。この年齢になって、私はベートーヴェンの音楽の中の神を初めて感じました。彼は私たちを超越した存在を感じ、守られ、試練も与えられ、抗って最後は和解し、感謝した。この感謝を私は彼の音楽に深く感じます。
演奏家としての私は、ベートーヴェンが遺してくれた一音一音に感謝します。スタカートの一つ一つも大切にしたい。スタカートに込めた思いを考え、音楽にひれ伏し、仰ぎ見ながら演奏する。私ができることは、音を通してベートーヴェンと対話する。聴いている方は、それぞれになんらかの感慨を得てもらえれば私はうれしいのです。
ジョーク満載の第13番終楽章
こんなにありがたい音楽なのだけれど、一方でベートーヴェンは、結構、冗談も言うのです。それもまじめな顔で。冗談だと分かると、もうおかしくて仕方がない。他人を喜ばせようという気持ちがあって、同じことを繰り返さない発想がすごい。
第13番の終楽章なんて、ジョーク満載。「難しいでしょう?弾きづらいでしょう?」と語りかけてくる。根底に尊いもの、精神的なものがあふれているのだけれど、いつもまじめに正座して聴かなくてはいけないというのではなくて、私たちを幸せにしようという心が感じられる。楽しいこと、希望、そして絶望までも共有しましょうという姿勢。「共有」です。だからこそ、「人類は兄弟になる」という第九の精神が生まれたのだと思います。
≪熱情≫と≪ワルトシュタイン≫が同時期に作曲されたというのは、奇跡的なこと。≪熱情≫は悲劇ですが、≪ワルトシュタイン≫は明るさと光にあふれている。これも対比であり、闇の中で光を探す、と言えると思います。
シューベルトの諦念
二つの曲を同じ演奏会で弾いたことがありますが、本当に大変でした。ベートーヴェンの音楽はとてつもないエネルギーを要求します。シューベルトも大変。彼の音楽には、諦念があります。人生のはかなさ、寂しさ、孤独…。孤独は孤独、それでいいというあきらめです。一方で、苦悩の中で一輪の花に出会う。美しいと思えるその瞬間には、人生の苦悩は存在しない。なんてこの花は、美しいのだろう。あそこには少女がいる…。どんなにつらくても花は美しい。その瞬間が、シューベルトの音楽には映し出されています。この世でもあの世でもない、中間の音楽です。
モーツァルトの音楽にも深いあきらめの気持ちが宿っています。ベートーヴェンを弾き続けてモーツァルトが恋しくなって弾いてみて、その暗さに打ちのめされるような思いがしました。とんでもなく明るいソナタの中にも、あきらめやメランコリーが存在するとは、ずっと気が付きませんでした。
≪月光≫第1楽章は生きることの問い
≪月光≫の第1楽章は、生きるとは何かと瞑想しているようです。深遠な世界。人はいかに生きるべきかとベートーヴェンは問い続けます。第2楽章は光。第3楽章は嵐のような激しい曲です。同じ作品27の第13番(作品27―1)は、光に満ちた曲。夜の音楽の≪月光≫(27-2)と対比的です。
ベートーヴェンの音楽には謎があります。例えばフェルマータ。フェルマータは、何かを問いかけているなと感じます。スフォルツァンドとフォルテピアノの違いも、私はベートーヴェンに使い分けの意味を尋ねたくなります。
ドルチェの記号が記されたところからは優しさがあふれてくる。≪熱情≫にしても、第1楽章第2主題にドルチェと記されているなら、ただ激しく問う曲ではないのだと思われます。ピアニッシモはミステリオーソ(神秘的)です。ただ、ここでどうして、というところにもピアニッシモの指定が現れることがある。
胸打つ「ドルチェ」のやさしさ
なぜ、ベートーヴェンのソナタを弾こうと思ったか─。私にはドルチェの優しに胸打たれ、ピアニッシモの神秘に光が射したからと言えます。扉が開いたのです。とはいえ、独りで弾くベートーヴェン演奏がとても勇気の必要なことに変わりはありません。
桐朋学園高校を卒業後、ザルツブルク・モーツァルテウム音大、ハノーファー音大においてハンス・ライグラフ氏に師事。1983年第32回ミュンヘン国際音楽コンクールで日本人として初の優勝。サヴァリッシュ指揮バイエルン州立管と共演し、ミュンヘンでデビュー。ベルン響、チェコ・フィルの定期公演などに出演した。日本では朝比奈隆、ジャン・フルネらと共演を重ねた。CDの代表作は、シューマン・ピアノ曲全曲録音「シューマニアーナ1~13」「シューベルト ピアノ作品集1~6」など。東京藝術大学教授、桐朋学園大学特任教授。
伊藤恵 ピアノ・リサイタル
春をはこぶコンサート ふたたび
「ベートーヴェンの作品を中心に」Vol.4
2023年4月29日(土.祝) 14:00 開演(13:15 開場) 紀尾井ホール
オール・ベートーヴェン プログラム
ピアノ・ソナタ第8番 ≪悲愴≫
ピアノ・ソナタ第13番
ピアノ・ソナタ第14番 ≪月光≫
ピアノ・ソナタ第23番 ≪熱情≫
ピアノ・ソナタ第26番 ≪告別≫