おすすめアーティスト一覧

過去のアーティストをみる

おすすめアーティスト

vol.154 指揮 鈴木雅明

ペテロの否認や救いの希望
マタイ受難曲を語る

指揮 鈴木雅明
《マタイ受難曲》を指揮する鈴木雅明 ©K.Miura

「120回くらい振った。
毎回、感動がある」

 鈴木雅明が4月、バッハの傑作、《マタイ受難曲》を指揮する。音楽監督を務めるバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の定期公演。受難節コンサートとして、キリストが十字架上で息を引き取ったとされる聖金曜日(今年は4月18日)を中心に演奏する。バッハが心を込め、信仰告白として創作した作品の魅力や聴きどころを語ってもらった。

藤盛一朗◎本誌編集


──BCJではキリスト教の復活祭直前の金曜日に《マタイ受難曲》を演奏してきました。

 イエス・キリストが十字架につけられた日が金曜日、復活したのが日曜日というのがキリスト教の伝統です。復活祭直前の聖金曜日には、キリストの受難を記念する朗唱などが教会で行われてきました。(歌うように読む)聖書の朗唱に、詩編や賛美歌、自由詩を加える。そこから受難曲が作られるようになりました。

 BCJが初めて《マタイ受難曲》を演奏したのは、結成翌年の1991年3月です。その後、聖金曜日に演奏してきたのは、キリスト教の伝統を日本の皆さんに知ってもらい、その中でバッハの受難曲を聴いてもらえればうれしいなという思いからでした。自分にとっては、信仰告白です。

──基本構造はどのようなものですか?

 エヴァンゲリスト(福音史家)による聖書の朗読(歌唱)とイエス役のバスや群衆を演じる合唱があり、自由詩に付けられたアリアでは、信仰的省察として個人の信条が吐露される。そして、会衆による賛美歌(コラール)です。賛美歌の選択や配置は、バッハによるものです。

第1曲の第3合唱
赤インクで強調

──第1曲では第1、第2合唱が歌う短調の響きの中に突如、「おお罪なき神の子羊、十字架の幹に屠られ、常に耐え偲び給わん、いかに蔑まれども」(鈴木雅明訳)という第3の合唱がソプラノまたは児童合唱で歌われます。天から降り注ぐようで感動的です。

 二つの合唱にソプラノの第3合唱が加わることで、三角形を形作る。明らかに、(キリスト教信仰の中核をなす)三位一体の象徴をつくる意図があったと考えられます。そして大事なのは、1736年の自筆清書譜ではエヴァンゲリストとこの(第1曲第3の)コラールだけが赤いインクで書かれていることです。ペンを持ち直し、バッハは赤インクで重要性を強調しました。エヴァンゲリストの言葉は聖書の言葉です。

 バッハがいかに聖書を熱心に読んだか──。バッハは1733年、カーロフ聖書と呼ばれる聖書を購入しています。ルター訳のドイツ語聖書で、全3巻。端から端まで下線が施され、注釈を入れたり、印刷のミスを正したり…。オリジナルのものは米セントルイスの神学校図書館にあり、オランダの篤志家の熱意でファクシミリ版が刊行されました。100万円近くもしますが、銀座のキリスト教書の書店、教文館で販売もされています。

 バッハの聖書へのこだわりというのは、本当に感動的です。バッハは各巻に1733年と記し、花押(かおう)のようにJSBを一文字にしてそれぞれ署名しています。1733年は、ロ短調ミサのキリエとグローリアをドレスデンのザクセン選帝侯に献呈した年でもあり、バッハにはいかに大切な年だったかも分かります。

イエスを見捨てた弟子たち
直後の第29曲「光と影」の構造

──マタイ受難曲は、聖書の受難物語の一つ一つのエピソードを掘り下げ、感情に働きかけます。イエスが捕えられた後の場面。エヴァンゲリストは「この時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去った」と歌い、嬰ハ短調で締めくくる。休止の後、始まるのが第29番の大コラール「おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け」です。重々しい短調かと思えば、テキストに相反してホ長調で歌われる。それがまた、ひたひたと心を打ちます。

 本当にそうです。私がマタイ受難曲を指揮したのは120回くらいだと思います。まったく飽きない。1回1回、感動に満たされます。

 第29曲は、《ジュネーブ詩篇》の36篇からきています。ジュネーブ詩篇とは、旧約聖書の詩篇を歌う(カルヴァン派の)賛美歌です。詩篇 36篇は、「罪を見つめよ。なんじの罪に対し、神の恵みはいかに大きいか」という内容なのですが、まさにレンブラントの絵画の光と影のような内容です。

 この曲がルター派に入って歌詞はハイデンの自由詩に代わりましたが、第29番は、「汝の罪を嘆け。罪は重い」と言っておいて、途中から「(キリストは)死せる者には命を与え あらゆる病を除き給えり」と歌う。ですから、これは詩篇 36篇とまったく同じ構造なのです。だからこそ、感動的です。

──ペテロの方は、イエスが捕えられた後、居合わせた人に「あなたも(イエスと)一緒にいただろう」と言われ、3度、否定します。その後で「私を3度否むだろう」と言ったイエスの言葉を思い出し、激しく泣きます。この場面は、《マタイ受難曲》の聴かせどころの一つです。《ヨハネ受難曲》でも、ヨハネ福音書には「泣く」と書かれていないのでバッハはわざわざマタイ福音書から引用しています。

 その通りです。ルター派の信仰では自分の罪を認めて背負う。悔い改めることが重要なテーマです。マタイ受難曲には個人的な信条の告白という性格があり、ヨハネ受難曲は神の摂理を語る目的で書かれている。それでも、ヨハネにさえ「泣く」ことを入れたことにバッハの信条がよく表れているのです。

 ペテロは、たき火にあたっていて人に問われます。寒かったのは、イエスから離れようとしたから寒かったのです。

※3月19日発売号の原稿から一部抜粋して掲載


Suzuki Masaaki

 東京芸術大学作曲科から同大学院オルガン科に進み、オランダのスウェーリンク音楽院(現・アムステルダム音楽院)でチェンバロとオルガンを学ぶ。1990年、オリジナル楽器アンサンブルと合唱団の「バッハ・コレギウム・ジャパン」(BCJ)を結成。J.S.バッハの宗教音楽作品を中心に国内外で活動を続ける。
 バイエルン放送響、ボストン響など世界的な楽団の指揮も重ねている。BCJは2025/26年シーズンに6回の定期演奏会を開催。4月の《マタイ受難曲》のほか《ロ短調ミサ》(7月20日、鈴木優人指揮)、《クリスマス・オラトリオ》(11月23日、鈴木雅明指揮)などバッハ作品を精力的に演奏する。

ここで聴く

BCJ受難節コンサート・第166回定期演奏会

4月18日(聖金曜日)18:30~、4月19日(聖土曜日)15:00
東京オペラシティ コンサートホール

J. S. バッハ:《マタイ受難曲》BWV 244
指揮:鈴木雅明
管弦楽・合唱:バッハ・コレギウム・ジャパン
エヴァンゲリスト:吉田志門
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、安川みく
アルト:マリアンネ・ベアーテ・キーラント、青木洋也
テノール:櫻田 亮
バス:ヨッヘン・クプファー、加耒 徹